松平 正和(まつだいら まさとも)は、江戸時代後期から幕末期の大名。上総大多喜藩の第8代藩主。大河内松平宗家10代。
生涯
文政6年(1823年)、第6代藩主松平正敬の長男として生まれる。文政9年(1826年)に父が隠居したとき、家督を継げなかったのは幼少のためと思われる。天保8年(1837年)に叔父で第7代藩主の正義が死去したため、その養子として跡を継ぎ、12月に叙任する。しかし天保13年(1842年)には大多喜城天守閣の焼失、弘化3年(1846年)閏5月の大洪水、さらに嘉永2年(1849年)4月には幕府の日光祭礼奉行などの役職歴任による出費など、その治世は多難を極めている。
正和には女児しかなかったため、文久2年(1862年)9月29日に40歳で死去した後は、婿養子として迎えた正質が跡を継いだ。
系譜
父母
- 松平正敬(実父)
- 明石氏 - 側室(実母)
- 松平正義(養父)
正室
- 加納久儔の娘
子女
- 松平峯子 - 松平正質正室
- 松平鍈子(三女) - 水野忠敬正室
- 松平貴子 - 間部詮道正室
養子
- 松平正質 - 間部詮勝の五男




